2006年10月14日

50セントの残酷な午後9

真っ暗な部屋。
たったひとつのランプの明かりが
三人の黒人たちの顔をぼんやり浮かび上がらせる。

三人の黒人たちは50セントをみている。
ひどく悲しそうな顔をして。

ひとりが言う。
「ヒップホップを救えるのは君しかない」
もうひとりが言う。
「ヒップホップを救えるのは君しかいない」
最後のひとりが言う。
「ヒップホップを救えるのは君しかない」
三人が声をあわせて言う。
「ヒップホップを救えるのは君しかない」

そして50セントは目を覚ます。
タートルネックに包まれた首のまわりが、
ぐっしょりと汗で濡れている。

時計をみる。
もうすぐ兎からの電話があるはずだ。

なんだっていうんだ。
どうしろっていうんだ。
いったいぜんたい、なんなんだ。

かつて夢の中でみた彼らのお告げどおり、
50セントはヒップホップを始めた。
類まれなる才能があるといわれたとおり、
肉体労働者にすぎなかった50セントが
ヒップホップスターとして成り上がることができた。
それでも、ヒップホップを救えというその言葉には、
50セントはいつだって釈然としない思いでいた。
CDは売れた。莫大な売上金をあげた。
ランキングチャートにはいつだってその名があった。
これ以上に何をすればいいのだろうか。
そんな疑問を抱きながら、50セントはラップを続けてきた。
そして、そもそも、夢でみたあの三人の黒人たちは、
ヴァン・ヒープハープ邸の地下室でヒップホップを始めたあの黒人たちなのだろうか。
それとも、レム睡眠時の大脳新皮質がみせた無秩序な夢の欠片にすぎないのだろうか。
二度目の彼らの夢をみた今、50セントは一層わからなくなっていた。

姉さん、あの話は本当だったの?
あの三人はヒープハープ邸の奴隷たちなの?
そして彼らは、僕に何を期待しているの?

姉から聞いたヒップホップ植民地時代起源説。
あるわけないと思いながらも、否定し切れないでいた。
くだらないと思いながらも、忘れられずにいた。
姉が他に語ったいくつもの作り話と同じように、
それは滑稽で、現実性を欠き、いくつかの矛盾を孕んでいたが、それでもどこか否定し切れない類の話に思えた。

つまりは、50セントは信じていたのだ。
ヒープハープの聖なる地下室を。
地下室が生んだ三人のヒップホップ聖人を。

クイーンズの地下室に篭ったときだって、
その頭にあったのは、決して防音や家賃の節約のことだけではなかった。
本当は、三人のヒップホップ聖人たちにならってのことでもあったのを、50セントは自覚していた。
キリスト生誕における馬小屋のように、
ヒップホップ生誕の地としての地下という場所が、
神秘性を持って50セントを魅了したのだった。

「ヒップホップを救え」
初めての夢の中で、最後のひとりが放った言葉。
そして、いまみたばかりの夢では、三人全員が放った言葉。

ヒップホップを救えだって。
いったい今のヒップホップの何が気に食わないんだ。
勘弁してくれよ。僕には何も出来ないよ。
それに、もうあんたたちの時代とは違うんだよ。

時代は変わり続ける。
そして音楽もまた変わり続ける。

LCD Soundsystemのアルバム一枚分の曲たちはとうに終わり、
ステレオのスピーカーからは、
ベルリン発の三人組多国籍ガールズテクノパンクユニット、
Chicks on Speedの「We don't play guitars」が流れている。

We don't play guitars♪
We don't play guitars♪

もはや楽器が弾けなくても音楽を始められるこの時代に、雨後の竹の子のように新しいバンドやユニットが生まれていくそんな時代に、定義不能の新しい音楽が、説明不要の素晴らしい才能が続々生まれている。
そして、その一方では、過去の産物を真似するだけの、怠慢と惰性で出来た取るに足りない音楽もまた続々生まれている。

今のヒップホップはその最たる典型ではないだろうか。
と、50セントは思う。

お手軽ヒップホップが世にのさばっている。
MTVのお宅訪問番組で豪邸や車を自慢するためだけのヒップホップが。
お粗末な知識とありきたりの政治批判で偉ぶるだけのヒップホップが。

一昨年前の大統領選挙でのキャンペーンを思い出す。
「Vote or Die! 」と書かれたTシャツを着せられて、
パフ・ダディやネリーと一緒にMTVやBETのCMに登場したマヌケな自分の姿を思い出す。

Vote or Die? ふざけるな。
そんな使い古された表現で何かが変わるものか。
無教養な政治音痴を投票場へ連れ出すことに、意味なんてあるものか。
メディアに踊らされて、思慮もなく投じられた票なんて、ないほうがましだろ。

変えるべくは意識だ。
考えるべくは未来だ。
大切なのは前へ進むことなんだ。

そして、ミュージシャンなら、
音楽にそれを託すべきだ。

常に革新的であり続けるバンドがある。

ニューオーダー。
プライマルスクリーム。
フレーミングリップス。
ソニックユース。

誰よりも初々しいベテランミュージシャンたちがそこにいる。
未来を見据えた音楽がそこにある。

ひとつのバンドが、
ひとりのミュージシャンが、
いくつもの音楽史を塗り替える。
アルバムとアルバムの長く閉ざされた沈黙の間に、
華麗なる進化を遂げている。

ビートルズだってそうだった。
ビーチボーイズだって
ローリングストーンズだって。
そして、マイケルジャクソンだって。

そのとき、50セントは、はたと思いつく。
いつか薬の効果が切れ、
元の黒人の顔に戻るのではないだろうか。
いつだったか崩れ落ちた、
マイケルのプラスチックとシリコンいりの鼻のように。

カウチから飛び起き、ごみ箱を漁る。
そこに捨てられたチカコビューティー社製、
「ファニーフェイスになる薬」のパッケージを拾い上げる。
チカコビューティー社の電話番号が書いてあるのを確認し、
その部分を引き破る。
コードレス電話の受話器に手をかけたままの姿で、
それから少し考え込む。

えっと、日本の国番号は何番だろ。
それにいま、日本は何時かな。

そのとき、50セントの携帯電話が鳴る。
それが兎からであることを確認して、
50セントは受信ボタンを押す。

「やあ、ラビット」

「やあ、ジョージ。いまクラスが終わって、スターバックスに向かってるよ」

「わかった。じゃあ僕もそろそろ家を出てスターバックスに行くよ」

「うん。まだ仕事までに時間があるからそこでのんびりコーヒーでも飲もう」

「うん、そうしよう。えっと、それで、その後はどこへ行くの?」

「えっと、近くのチャイニーズフードの店に行く」

「え?そこで食事するの?」

「いや、違うんだ」

「もしかして、仕事ってチャイニーズフードのデリバリーのこと?」

「いや、そうじゃない。そこからまた別の場所に行くんだ」

「どうゆうこと?」

「入り口があるんだ、そこに」

「入り口って?どこへの入り口?」

「地下さ。そこから地下へ行くんだ」

つづく

投稿者 hospital : 16:05 | コメント (0)

50セントの残酷な午後8

チャイナタウンで偽造IDを手に入れた後、
授業があると学校に向かった兎と別れ、
自宅に戻った50セントはリビングのカウチに寝転んでいた。
朝からの騒動で心身ともに疲れきっているせいで、
着替えをする気力がなく、ジャケットすら脱いでいない。

顔の上に掲げた両の手のそれぞれに、
もとより持っていたIDとジョージ・カワカミと名の入った偽造IDを持ち、
それらに印刷されたふたつの顔写真を交互に眺める。

全然違う顔だ。
まるで…マイケルジャクソンみたい。

ふいにマイケルのあのカン高い声が頭に響いた気がした。

そういえば、声はどうだろう。まさか声までは変わってないだろうな。

ごほんっ。あーあー。
あめんぼあかいなあいうえおー。

自分の声を確認する。
顔や肌の色は変わったが、
声は以前と同じである。

なんだ、一緒か。

壁にかかった時計をみる。
あと1時間ほどすれば、
授業を終えた兎から電話があるはずだ。
それから家を出て、
近所のスターバックスで待ち合わせをして、
兎の働く場所へ行くことになっている。
そこは50セントが今夜から働くことになる場所でもある。

新しい仕事につくことに、
50セントは少し不安でもあった。
長い間、ラップを稼業に生きてきた。
まともな労働などずいぶんしていない。

ちゃんと働けるだろうか。
長く続けられるだろうか。

50セントは頭をふる。

だめだ。弱気になってちゃだめだ。
僕はもうラッパー・50セントではないんだ。
日系アメリカ人・ジョージ・カワカミとして暮らすために、
新しい仕事につかなければいけない。

新しい仕事。
それは同時に、ヒップホップラッパーとしての暮らしに、
ホントウの終止符を打つことでもある。

不安を払いきった50セントの胸に、
今度は一抹の寂しさが去来する。

もうステージに立ってマイクを持つことはないんだな…。
ラップスターを夢見て練習に明け暮れたあの日々も、
もう無駄になってしまうんだな…。

ヒップホップを始めたとき、
50セントは大きな音量でトラックを流せ、
近所迷惑にならずラップの練習が出来る場所を求めて、
クイーンズのとある建物の地下室に引っ越した。
仕事を止め、最低限の食料だけを買い込み、
テレビやラジオを持たず、
携帯電話の電波すら入らないその地下室で、
ひたすらヒップホップに打ち込んだ。

そこは、夜の静けさがずっと続く神聖な場所であり、
ベッドに潜り込んだ後で眠りに着く前の、
あの混沌とした思考が絶えず訪れる深淵な場所だった。

優れた文学作品は夜のうちに生まれる、と誰かが言った。
昼の明かり下では哲学は生まれない、とも誰かが言った。

音楽だってそうだ。
と、50セントは思う。

これまでのロックの歴史の中で、
新人バンドによる初期衝動が
今まで多くの金字塔を打ち立ててきた。

セックスピストルズ。
クラッシュ。
ラモーンズ。
ジョイ・ディヴィジョン。
ザ・ジャム。
ストーンローゼス。
マイブラッディヴァレンタイン。
ソニックユース。
ライド。
ニルヴァーナ。
オアシス。
レディオヘッド。
スマッシングパンプキンズ。
etc...

彼らはまるで、夜のうちの思いついたアイデアを、
夜のうちに実行するように、初期衝動を貫いた。
朝、目が覚めたときにはすっかり忘れ去られる感情のように
その初期衝動が失われぬよう、
大切に大切に抱き続け、慎重に慎重に具現化し続けた。

そして、明けない夜はないように、
いつしか彼らは夜明けを迎える。
それはロックの歴史を変える素晴らしき夜明けであり、
彼らの人生を変える幸福な夜明けだった。

カウチの隅に転がったリモコンを拾い上げ、
ステレオの電源をオンにする。
CDチェンジャーを適当に動かし、プレイボタンを押す。
LCD Soundsystemの「Daft Punk is Playing at My House」
が流れ始める。
ソリッドな打ち込みとダブベースの太いうねりが生み出す
いびつなファンクビートの中で、
LCD Soundsystemのボーカルであり、
NYの最重要プロデューサーチーム・DFAの片割れでもある
ジェームス・マーフィーが叫ぶように歌い始める。

ディスコ・パンク。
ニューヨークで生まれた最新の音楽ジャンルだ。

ここニューヨークから最先端の音楽が生まれ続けている。
目まぐるしく変化し続けるテクノロジーとカルチャーとともに、
音楽は進化し続けている。
そんな音楽シーンの一部であるヒップホップに、
かつて一石を投じたのは、誰だったか。
それは、あの地下室をいくつかの自作曲とともに這い出し、
華々しくメディアに登場した50セント自身ではなかったか。

そうとも。
50セントにもかつて幸福な夜明けがあった。
あの地下室を出たときから、
ラッパー・50セントは文字通り、
日の当たる場所を歩み出していたのだ。

僕にはもう関係ないよ。
もうヒップホップのことなんてどうでもいい。
僕はこれからヒップホップとは縁のない
新しい人生を始めるんだ。

50セントはそうつぶやき、
思考をやめ、目を閉じて音楽に耳を澄ます。
そしていつしか、うたた寝を始め、、
心地よいまどろみの中に沈んだ50セントは、
再びあの三人の黒人の夢をみていた。

つづく

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50セントの残酷な午後7

ヒップホップ生誕の歴史には二つの説がある。
ひとつは一般的に良く知られた、70年代後半のブロンクスで、偶然に扱ったターンテーブルから生まれたという説。
もうひとつは、18世紀半ばの植民地時代、場所を同じくブロンクスとし、オランダ人入植者家族であるところのヴァン・ヒープハープ家の地下室で生まれたという説。

当時、ヴァン・ヒープハープ邸には三人の黒人が使えていた。
オランダ人入植地・ニューアムステルダム、その後イギリス人入植者たちに征圧され、ニューヨークと改名されるその土地が、他の主な植民地帯とくらべてずっと黒人たちに寛容な場所であったとはいえ、その身分はやはり奴隷にすぎない。
殺風景な地下室を寝床として与えられ、外では綿花や小麦の畑、家では給仕として朝から晩まで働き、夏の夜は蒸し暑さに、冬の夜は寒さに耐えながら眠る。
彼らはそんな生活をしていた。

あるひどく寒い冬の夜のことだった。
三人は暖をとるためにダンスを踊っていた。
彼らの寝床であるとともに倉庫代わりにも使用されていたその地下室には、壊れてもう入用ではなくなった木製の脱穀機や収穫を収めるための壷などが置かれていた。
ひとりが壷の裏を太鼓のようにして叩く。乱暴に、それでいてリズミカルに叩く。これが後に電子楽器によるブレイクビーツへと昇華することとなる。

もうひとりは脱穀機の車輪をまわす。
強くまわす。反対に強くまわす。強くまわす。また反対に強くまわす。すると木製のその車輪から、きゅっきゅきゅっきゅと木のきしむ音が鳴り出す。その音が、壷から溢れ出すビートに、アクセントとして重なる。スクラッチの始まりである。

残りの一人が音にあわせてダンスを踊る。
どうしても気分の沈むその地下室で、無理に笑ってみせるために、できるだけ滑稽に踊る。そしてときに激しく、その身体能力の高さを誇るように、難しい技を繰り出す。三人が交代でダンスを行い、それぞれの技を競い合う。こうして、ブレイクダンスが生まれたのだった。

ダンスが興に乗ってきた頃、ひとりが歌いだす。
まるで誰かに語りかけるようにして歌いだす。
その歌の歌詞には、祖国を離れ奴隷として暮らす彼らの悲哀と、白人たちへの不満が暗喩的にこめられている。偶然耳にした白人たちにわからぬように、隠喩と象徴を散りばめ、ときにユーモラスに、ときに辛辣に彼らを誹謗、中傷していたのだった。

そんなふうにして三人が過ごす地下室の壁にはさまざまな絵が描かれていた。むき出しの土壁があまりに寒々しすぎるので、ひとりがそこに絵を描いたのだ。主人たちが暮らす部屋の壁や家具のためのあまった塗料で描かれたそれは、カラフルで、力強く、そしてシンボリックで意味深なものがばかりだった。そして、そんな落書きたちが、250年ほどの時が過ぎた後に、グラフティアートと呼ばれるようになる。

こんなふうにしてヒープハープ邸の地下室で生まれたこれらの文化を、その家主の名にちなみ、全てひとくくりにヒップホップと呼ぶこととされたのは20世紀の後半のことである。
いまやメインストリーム、かつてはアンダーグラウンドミュージックと呼ばれたヒップホップは、文字通り暗い地下室の中で生まれ、長い間公に知られることなく、地下組織的に受け継がれてきたのだった。

歴史的証拠や文献などどこにもなかった。
それでも50セントは以上の話を信じていた。

もっとも、全ては幼い頃に姉から教えられた話であり、姉がこの世にいない今となっては、その真実性を確かめるすべもなく、いささか疑わしいように思ってもいたのだが。

つづく

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50セントの残酷な午後6

兎の家を後にした50セントと兎の二人は地下鉄の車内にいた。
マンハッタンの東側を縦断する緑色の6番ラインのその車内で、偽造IDのことに興奮気味の50セントがしきりに兎に話しかける。

「知らなかったよ、そんなに簡単に偽造IDが手に入るなんて!」
「しーっ。ジョージ、ちょっと声がでかすぎるよ」
「ごめんごめん。ねえ、ラビット、もしかしてパスポートも手に入るの?」
「ああ。かなり値ははるけど可能だと思うよ。偽造ビザだって手に入るし、I-20っていう学生ビザに必要な書類も簡単に手に入る」
「すごいや。すごいなチャイナタウンは。ねえ、このことみんな知ってるの?」
「まあ、ジョージみたいにアメリカ育ちのアメリカ人たちは知らないかもな。ビザなんて心配する必要ないもの。でも移民たちにとっては有名なはなしだよ」
「うん。全然知らなかったもの」
「そうだな。ジョージはアメリカ人だものな」

ユニオンスクエアの駅で地下鉄が停車する。
開いたドアから何人かの若い東洋人が乗り込んでくる。
彼らはみな一様にダブダブの服を着て、
ヤンキースのキャップを斜めに被っている。
いわゆる、50セントがよく知った、ヒップホップファッションだ。

「なあ、ジョージ。あいつらみろよ」
「え。どうしたの」
「あいつらナニ人だと思う?」
「えー。そんなのわかんないよ。日本人?韓国人?中国人?そのうちのどれかでしょ」
「あー、やっぱり。ジョージはほんと全然わかってないね」
「どうゆうこと」
「あれ全員日本人だぜ」
「そうなの?」
「これだから日系三世は。いいかい、ジョージ。東洋人たっていろんな国のやつがいるよ。でもさ、わかるんだよ、同じ東洋人には。東洋で育ったこのある俺たちにはさ。その顔や服装をみれば、どこの国の出身なんてことがさ」
「え、そうなの!? じゃ、じゃあ、あの人は何人?」
50セントが指差した先には、薄いピンク色のタータンチェックのマフラーをした東洋人の女が本を片手に座っている。
「あれは韓国人」
「どうしてわかるの?」
「まずあのマフラーのタータンチェックと色。韓国人女性はなぜかあの柄とパステルカラーが好きなんだ。それからあのプラダのマーク付バッグとラルフローレンのワンポイントつきセーターもそうだな。韓国人女性はみんなあれを持ってるんだよ。まあたぶん韓国で売られているコピー製品だと思うけど。それからあの底がぺったんこの黒い靴もそう。あれが日本人女性だったら、絶対少しはヒールがあるはずだし、中国人ならもこもこしたスケチャーズあたりのスニーカーを履いてることが多い。あと彼女がいま読んでる本みろよ。ティーオーエイアイシーって書いてあるだろ。トーイックって読むんだ。東洋人たちのためのスペシャルな英語テストのことさ。特に韓国人学生たちにとっては就職に絶大な効果を発揮する。だから、たぶん、彼女は、就職活動に備え、韓国の学校を休学して英語を学びに来てる語学学校生ってところだろうな」
「すごいや、ラビット。すごい。じゃああの人は?」
次に50セントが指差した先には、洗いざらしの黒髪にすっぴんでシンプルな格好をした東洋人女性がいた。
「あれは中国人。ほら、全然化粧してないだろ。化粧好きな日本人や韓国人女性じゃあれはありえないね。それと、あのジーンズ。タイトですこしフレア気味になってて裾が広がってる。中国人はあれが好きなんだ。韓国人は色の薄い太目のジーンズを好むし、日本人は色の濃いタイトでストレートなジーンズを好む。ほらみろよ、やっぱりもこもこのスニーカー履いてる。あと台湾人でなく中国人だと思った理由は、台湾人はもう少し派手なんだよ。うまくいえないけど、もうすこしファッションに気を使っているっていうか。それと、中国でも香港や上海出身の女の子もたちそう。あ、ほら、いま鞄から中国語の新聞出したろ。見出しに北京って書いてある。な、思ったとおりだ」
「すごいや、ラビット。本当にすごいや」
「はは。ジョージもニューヨークに長く暮らせば同じことができるようになるさ」
「そんなもんかなあ。でもさ、ラビット、日本人の男の子はみんなヒップホップの格好をしてるの?」
「いや、いろんなやつがいるよ。ヒップホップじゃなければ、ゲイみたいにガーリーな格好をしてるか、本当は清潔なみせかけだけの汚い格好をしてるか、ブランドものの小ざっぱりした服を着てる」
「あと髪型もポイントだ。カリアゲ頭は中国人か韓国人。それで、髪の分け目がはっきりしていればしているほど中国人である確率が高くて、カリアゲた箇所が広ければ広いほど韓国人である確率が高い。日本人にカリアゲはあんまりいないな。でもヒゲをはやしてるのは日本人の男だけ」
そう聞いて、50セントはあらためてラビットの外見を眺める。
服装はちょっぴりガーリーでどこか品の良さを感じさせる。お洒落といっても間違いない。そして、髪型はカリアゲではなく、ワックスで無造作に散らされたスタイリッシュな髪型であり、顎には薄くヒゲが生えている。
「ラビットは韓国出身なのに、カリアゲじゃないんだね」
「ああ。日系の美容院行ってるからね。ちょどこのあたりだよ」

地下鉄がアスタープレイスの駅で止まる。
ヒップホップスタイルの日本人たちがぞろぞろと駅のホームに下りて行く。それに入れ替わって、また何人もの東洋人が乗り込んでくる。

「このへんは日系の店が多いんだ」
「へー。そうなんだ」
このあたりはかつてインディー専門レコード屋目当てにはよくきていた50セントにとって、馴染みのある場所ではあったが、今日ニューヨークに来たばかりと兎に言った手前、知らぬふりをする必要があった。
「やっぱり寿司屋が多いの?」
「居酒屋とかやきとり屋とかラーメン屋とかいろいろあるよ。店員はみんな日本人。あちこちにたくさんある韓国人や中国人がやってる嘘っぱちの日本食レストランじゃなくてさ。で、繁盛してる店にはなぜか韓国人か台湾人の客ばかりいる。中国人はいない。あいつらはチャイナタウンかクイーンズに篭っているから」
「へー。不思議だね」
「そういや、ジョージはさ、仕事はもう決まってるの?」
「え。い、いや、まだだけど」
「どうするつもり?」
「わかんない。レコード屋か本屋ででも働きたいなって思うけど」
「そっか」

そうだった。今日で僕のヒップホップラッパー人生は終わってしまったんだ。貯金はまだまだたっぷりあるけど、僕は新しい仕事をみつけなくちゃいけない。新しい自分のための新しい仕事だ。新しい人生を支える新しい仕事だ。

「どこかいいところ知ってる?」
「レコード屋でも本屋でもないけどさ、俺が働いてるとこなら、人手不足で今ひと探してるんだ。兄貴もそこで一緒に働いてたんだけどさ、ほら、急にいなくなっちゃったものだから」
「僕そこで働くよ。ラビットがいれば、なんだか楽しそうだもの」
「はは。仕事だから別に楽しくはないよ。でも給料はすこぶるいいぜ」
「働ければ何だっていいんだ。紹介してよそこ」
「よし、わかった。でもひとつ条件があるんだ」
「なに」
「仕事のことは秘密厳守。誰にも教えちゃいけない」
「え。なにそれ」
「口の軽いやつはそこでは働けないんだ。それに、募集も公にしていない。働いてる人間の紹介がなければそこでは働けないんだ。ジョージは口が堅そうだからいいかなと思って」
「うん。僕、誰にも言わない。で、どんな仕事なの?」
「まあ、そんなに焦るなよ。今日俺学校が終わったら働くことになってるからさ、そのとき連れてってやる。電話番号教えてよ、学校が終わったら連絡する」
「うん。わかった」

ポケットから携帯電話を取り出して、ラビットと番号を交換する。
マナーモードに設定されたその携帯電話のディスプレイには、
たくさんの着信履歴が残されていた。
どれも、マネージャーの携帯電話からのものだ。

「あのさ、ジョージ。きっとぶったまげるぜ。これはニューヨークの一部のアジア系住民にしか知られていない仕事なんだ」
「え。アジア人限定なの?」
「うん。そう」
50セントの脳裏に、例のエディー・マーフィーのコントのことがよぎる。

すごいぞ。
黒人も白人も知らないアジア人だけの世界が本当に存在しているんだ。そしてその世界を、東洋人になりすました僕はいま、ラビットというこの男の子を通して知ろうとしている。
こんなこと、黒人として生きていたなら絶対起こらなかったはずだ。
チャイナタウンのことだって今まで知らなかった。
それに、東洋人の国籍の見分け方なんて今まで考えたこともなかった。
すごいぞ。すごくすごいぞ。
まるで世界がぐっと広がったみたいだ。
きっと世界観が変わるっていうのは、こういうことをいうんだ。

「ぼ、ぼく、絶対その仕事やってみたいよ。すごく興味がある」
「わかったわかった。でも絶対内緒だからな」
「うん」
ブリーカーストリートの駅で地下鉄が止まる。
ダブダブ服を着た東洋人の若者が三人、
英語じゃない言葉を大きな声でにぎやかに話しながら乗り込んでくる。

「ねえ、ラビット、彼らは日本人だろ」
「ちがうよ、ジョージ。たしかに彼らはヒップホップの格好をしてる。でも帽子をみてみろよ。深くきちんと被ってるだろ。斜めにはしていない。それからあのカバン。日本人のヒップホップかぶれはナイロン生地のアウトドアバッグを背負ってるんだ。でもほら、彼らのは綿生地の単なるナップサックだ。彼らは韓国人だよ。10代か20代前半のね。あれが彼らにとっての流行のファッションなんだ。みんなあの格好をしている。ヒップホップは関係ない。ヒップホップは好きだけど、せいぜい韓国人ラップを聴くだけで、そんなに詳しくはないんだ。ちなみに、PORTERとロゴのついた鞄を持っているのは他の持ち物関係なく、決まって日本人なんだ」
「すごいなあ、本当にすごいよラビットは」
「俺さ、前の恋人が日本人だったから、日本人と韓国人の区別には絶対の自信を持ってるんだ」
「へー。さっき言ってた、スヌープ・ドッグが好きな女の子のことだね」
「ちがうよ、そいつ、マサシっていうんだ」
「え?マッサージ?」
「ちがう。マ・サ・シ。男の名前」
「え?男の名前?その人がいったいどうしたっていうの?」
「ある日急にさ、もう会えない、って連絡があって、それっきりもう連絡がつかなくなっちまった。どうせ新しい彼氏でもできたんだろうな」
男の名前?彼氏?50セントは混乱していた。
そして、
「あーあ、俺もさ、はやく新しい彼氏みつけないと」
宙を仰ぎながらそうつぶやいた兎の言葉に、ようやく合点がいくのだった。
「ラビットは、ゲ、ゲイなんだね」
「うん。そうだよ。何だそんなことも気がつかなかったのか。みろよ、俺の服装。ニューヨークでファッションに気を使ってる男は日本人とヨーロピアンを除けばみんなゲイって決まってるんだぜ」
「はは…知らなかった」
「でもジョージ、安心しろ。ジョージは全然俺のタイプじゃないから。俺なんとも思ってないよ。俺はさ、ごっつい男が好きなんだ。ほら、50セントみたいなさ」
「はは…」

地下鉄はいつのまにかスプリングストリートの駅を通り過ぎ、キャナルストリートの駅で停車する。
「ついたぜ、チャイナタウン。さあ、降りよう」
先に立ち上がった兎に促されて、50セントも腰を上げる。
ラビットとの出会いは、東洋人のことだけじゃなく、他にもいろんなことを知る機会になるんじゃないかと、そう思いながら。

つづく

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50セントの残酷な午後5

自分自身を50セントと名づけた日のことを思い出しながら、
50セントは新しい名前について考えていた。

なんだっていいんだ。
東洋人に変身した僕はもうラップスターじゃない。
ただの一般人だ。
何の気負いもいらない。
普通の、平凡な、ありふれた、そんな名前でいいんだ。

そのとき、50セントの頭にひとつの名前が浮かんだ。
こいつはいい。これでいいや。50セントはそう思った。

「はい。グリーンティー」

食事に使った皿を洗い終えた兎が、
淹れたてのお茶をいれたマグカップを50セントの前に置く。

「ありがとう…あの…」
思いついたその名前を口に出そうとしたとき、
何かを察したように、兎が口を開いた。
「もしかして砂糖か蜂蜜いる?」
「え?」
「いや、グリーンティー飲むのに必要なんじゃないかと思って」
「あ…う、うん。おねがい」
「はは。やっぱり。あんたほんとにアメリカンだな」
「うん。へへ」

決めたばかりの新しい名を告げる機会を失った50セントは、
冷蔵庫を開け、蜂蜜の瓶を取り出す兎の姿をぼんやり目で追った。
「はい、どうぞ」
そう言ってかわいい熊のかたちの容器にはいった蜂蜜を50セントに渡した後、ふいに兎は冷蔵庫の上に手を伸ばし、そこに置かれたCDラジカセのスイッチを押した。

サラサラとCDが回転する音の後で、
アフリカ・バンバータのプラネット・ロックが流れ出す。
ドイツテクノの重鎮、クラフトワークのヨーロッパエクスプレスをサンプリングに使ったヒップホップの名曲だ。
かつて50セントはこの曲を何度も何度も聴いたことがあった。
ヒップホップをはじめたばかりの頃、ヒップホップの古い名曲をひたすら聴き込み、曲作りの参考にしていたときのことだ。
アフリカ・バンバータ。
グランドマスターフラッシュ。
DJクール・ハーク。
カーティス・ブロウ。
ファンキー・フォー。
そして、ランDMC。
とにかく聴いた。ひたすら聴いた。
そして、ときに感心し、ときに感動し、ときに感極まって涙した。
それはまだヒップホップがアンダーグラウンドミュージックだった頃の、もしくは、ようやくメインストリームに少し近づいた頃の名曲たちであり、多くのヒップホップミュージシャンの憧れであり、ラッパー、50セントの原点だった。

その頃のことを思い出す。

なんだかずいぶん遠い昔のことのようだ。
そして僕はずいぶん遠くに来てしまったみたいだ。

50セントはそう思った。
そして同時に、自分の体が無意識のうちにリズムにあわせて動いているのに気がつき、すぐにそれを止めた。

「なあ、ヒップホップ好きなんだろ?」
50セントのそんな様子をみていた兎が微笑みながら言った。
「え。どうして」
「だって、あんた、さっきまでそんな感じの格好してたじゃん」
「あ」

そういえばそうだった。
雨の中で兎に声をかけられたとき、
僕はヒップホップの格好をしていた。
そりゃ誰がどうみても、ヒップホップを愛してると公言しているような、そんな格好をしていた。

スリムな童顔の東洋人がそんな格好をしているのは、
街の人たちの目にどんなふうに映っただろう。
50セントはそう思った。
そして同時に、そのヒップホップスタイルの服を身にまとって
出席するはずだったレコード会社でのミーティングを思い出し、少し気が重くなった。

僕がミーティングに来なくて、彼らはどうしているだろう。
僕がいなくたって話し合いは進むだろうけど、いつも時間通りミーティングに出席している僕のことを思えば、何かあったに違いないと、あわてて僕を探しいるかもしれないな。

売上枚数と売上利益の話ばかりで、音楽性などまるで解さない彼らを50セントは常々嫌っていた。
50セントの新曲を聴いても、褒めも、感想すらも言わず、
ただただガキが喜ぶようにもっと過激にしろと注文するだけの彼らのことがひどく嫌いだった。
しかし、それが誰であれ、人に迷惑をかけることを50セントはもっと嫌っていたのだった。

でも仕方ないよね。
僕はちゃんと時間通りに会社に行ったんだ。
もっとも、まるで違う人間に変身してだけれども…。

ふいにわいた罪悪感を忘れるため、
今度は50セントが兎に質問をした。

「ラビットもヒップホップ好きなの?」
「いや。兄貴が好きなんだ。俺はよくわからない」
「え、そうなんだ」

50セントは不思議な気分になった。
いま自分が身にまとう兎の兄のものだというその服は、ヒップホップを好んで聴く連中のものではないような気がした。

「変わってるんだよ、うちの兄貴。イエローのくせに黒人の音楽が好きなんだ」
「そうなんだ。でも今はそういう人多いよね」
「まあね。俺もスティービー・ワンダーは大好きだしさ」
「うん。僕もスティービーは大好きだよ。お姉ちゃんとコンサートに行ったこともあるし」
「へえ。うらやましいな。で、そこにイエローはたくさんいた?」
「え…ちょ、ちょっと覚えがないな」
当時、黒人のいち少年にすぎなかった50セントにとって、そんなふうにコンサート会場での東洋人の数を意識したことはなかった。
スティービーのコンサートで覚えていることといえば、
自分の前でスティービーの歌声にあわせ、のりのりに踊るドレッドヘアーの男の髪がひどく臭ったことくらいだった。

「俺がヒップホップ知ってるのはさ、せいぜい50セントくらいだよ。はは」
兎の口から急に自分の名前が飛び出しので、50セントは全身にかっと汗をかき、胸の鼓動が早まるのを感じた。
そして、恐る恐るこう聴いた。

「そ、その、50セントの曲についてラビットはどう思う」
「うーん。そうだなあ…。すごくユーモアがあると思う。歌詞がさ、表面的には過激なんだけど、でも本当は深く読めばすごくやさしくて面白味があるっていうか…。俺、思うんだよね。あの人怖そうな顔してるけど、本当はいい人じゃないかなって」
そんな兎の言葉を聞いて、50セントの胸が益々その動機を早める。
それは驚きや緊張のせいじゃなく、嬉しさのせい。
「ぼ、僕もそう思うよ」
自分で言ったその言葉に、50セントはひどく気恥ずかしくなった。
「あとさ、スヌープ・ドッグも俺よく聴くよ」
知らぬ間に咥えていたタバコの煙を吐き出しながら兎が言った。
「え、ほんと。ドッグさん聴くんだ」
「うん。前の恋人がすごく好きだったよ。なんかさ、顔がかわいいんだって。それに面白いって」
「そうなんだよ。あの人、すごく茶目っ気があって面白いんだよ」
「はは。なんか、知ってるみたいないいぶりだな」
「はは…」

こんなふうに、一般人の口から自分の曲の感想や友人ラッパーの名を聞くとは、50セントにとっていままで夢にも思わぬことだった。そして、何も事情を知らず自分と会話をする兎に、あらためて不思議な気分になり、ついついその顔をまじまじとみつめてしまうのだった。

「なんだよ、変な顔して俺をみて。あ。もしかしてあんたもタバコ吸いたい?」
「いや、僕、タバコは吸わない」
「そりゃ感心だ。俺もやめたいんだけどね、なかなかやめれなくて」
「そうなんだ…あれ?で、でも、ラビットまだ21歳になってないよね」
「あ。ばれた。へへへ」
「タバコ買えるの?アンダー21なのに?」
「はは。大丈夫。ほら、これがあるから」

そういって兎はポケットから財布を取り出し、
さらにその中から一枚のカードを取り出して50セントにみせた。

「これさ、フェイクなんだ」
「えー!すごい!よくできてるね」
「これないとバーにもクラブにもはいれないし、デリでビールだって買えやしないだろ。ほんとニューヨークは子供に厳しいよ」

兎が50セントの目の前につきつけたそのカードとは、
誕生年の箇所が1979年と細工されたNY州の偽造IDだった。
どこからどうみてもホンモノにしかみえない。
50セントは目を細めそこに書かれた誕生年月を何度も読んだ。
そしてまた、そこに書かれたラビットのファーストネームが、たしかにラビットではなく、どう発音していいかわかぬ異国風のファーストネームであり、ラストネームにはCHEと書かれているのを知った。

「これ、チェって読むの?」
「うん、そう」
「へえ。なんだかゲバラみたいでかっこいいね」
「よくいわれるよ」
兎がはにかむ。
「ねえ、ラビット、これどこ手に入れたの?」
「チャイナタウン。まったくチャイニーズは偽造の天才だよ。頼めばあっという間につくってくれぜ」
「僕も欲しい!」
「あんた、ID持ってないの?」
「う、うん。なくしちゃってさ。それに、僕もまだ二十歳なんだ」
50セントは嘘をついた。
それでも、今のファニーフェイスなら二十歳と偽っても疑われることはないと思った。
「そっか。じゃあ今からチャイナタウンのその店に連れてってやるよ。ちょうど学校に行かなきゃいけないし。その途中でよっていこう」
「うん。ありがとう。すごく嬉しいよ。チャイナタウンにそんな便利な店があるなんて知らなかったな」
「なに言ってるんだよ。この街の全ての違法稼業はチャイナタウンにあるんだぜ。常識だろ」
「え、そ、そうなの」
「そうなのって、あんた、いったいいつからニューヨークにいるの?」
「え、え、えっと」
50セントは少しばかり考え込んだ。
生まれたときからニューヨークで暮らしているけど、東洋人に変身したのは今日で、東洋人としてのニューヨークは今日がはじめて。
だから、50セントはこう答えることにした。
「きょ、今日から」
「え?今日?じゃあ今朝ニューヨーク来て、今朝失恋したってわけ?ずいぶん忙しいやつだな」
「へへへ」
「変な人だな、あんた」
呆れたように言いながら兎は壁にかかった時計に目をやる。
「おっと。もう時間があんまりないぞ。すぐ出かけよう」
「うん!」
「あ、服さ、まだ乾いてないかも。その兄貴の服、着ていったらいいよ」
「ありがとう」
「たぶんジャケットは乾いてると思うんだ」
そう言って、兎はヒーターの上に置かれたジャケットを拾い上げ、50セントに手渡す。
50セントがそのヒップホップスタイルの大きなスタジアムジャンパーに袖を通すと、内側のナイロン生地にヒーターの温もりが染み付いているのを感じた。
そして、細身のコーデュロイパンツに黒のタートルネックの今の格好には、そのジャケットがひどく似合わぬ気がしたが、家に帰ればこないだ買ったばかりで一度も外で着たことがないJUNYA WATANABEデザインのモンクレーのダウンジャケットがあることを思い出し、気分がとても明るくなった。

着れるんだ、あの服たちを。
もうヒップホップの服は着なくていいんだ。
もう必要ないんだ。
よおし、それならヒップホップの服はもういっそのこと全部捨ててしまおう。
うちに帰ったらすぐそうしよう

「乾いてない服、どうする?持ってかえるだろ?」
兎が50セントに尋ねる。
「捨てていいよ。もういらないんだ」
「おいおい、ちょっと待てよ。まだ綺麗なのに捨てろって。クリーニング屋の息子にいう言葉じゃないぜ」
「はは。そうだったね」
「ちゃんと俺が洗っといてやるよ。もちろん綺麗にアイロンもかけといてやる」
「ありがとう。本当にありがとう。君には本当に感謝してる」
「わかったわかったって。あんたさっきから、ありがとうって言いすぎだぜ」
「だって本当にありがたいんだもん。どうお礼をしていいかわからないくらいだよ」
「まあいいや。あとさ、あんた、それは忘れず持って帰れよな」
そう言って兎が指差した先には、50セントが今朝じゃらじゃらと身につけて歩いたヒップホップスタイルのための大きなダイヤ入りペンダントが置いてあった。
「ねえ、ラビット、それ、お礼にもらってくれないかな」
「え、なにいってるんだよ」
「お願いだよ。是非君にもらってほしいんだ」
「いいのか。これすごく高そうだぜ」
「うん。いいんだ。もういらないんだ」
「ははん。さては今日ふられた相手にプレゼントされたものなんじゃないのか。それでもういらないって言ってるんだろ」
「う、うん、まあそんなところだよ」
実際に、ペンダントを50セントにプレゼントしたのは、レコード会社の幹部だった。
50セントのシンボルとしてデザインされ、常に身につけることを義務付けられたそれは、カリスマラッパー50セントモデルと妙打たれ、著作権つきのレプリカが巷で売買されていた。
つまり、そのペンダントはレコード会社による錬金術のひとつにすぎず、50セントにとってはひどく忌々しいものだったのだが、身に着けていないとレコード会社の連中にこっぴどく文句を言わため、惰性で首にぶら下げているだけのことだった。
「ラビット。お願いだからそれもらってよ。売ればいいお金になると思うし」
「金のことは別に興味ないけどさ、一応俺が預かっとくよ。必要になったらいってくれよな。つまり、恋人とよりを戻したらってことだよ。すぐに返してやるから」
「うん。わかった。ラビットに預けとく」
「よおし、じゃあチャイナタウンに行くか」
兎が椅子から腰をあげながらそう言った。
「うん。チャイナタウンでフェイクIDを手に入れに行こう!」
そう元気よく口に出したとき、50セントの頭に再び、さっき決めた新しい名前のことが浮かんだ。

そうさ。いまの顔の写真がついたIDさえ手に入れれば、
僕は完璧に新しい自分になりすますことができる。
警備員に怪しまれず、どこへだって自由に出入りできる。
オーシャンズ・イレブンのジョージ・クルーニーみたいにうまくやれって、あの年配の警備員は言ったけな。
うまくやるさ。フェイクIDをホンモノのIDにしてみせるさ。
もうあんなふうに嫌味を言われることはこの先きっとないはずさ。

カーキ色のコートを羽織り、
ニットキャップを被りつつある兎に50セントが声をかける。

「ねえ、ラビット」
「ん?」
「僕の名前のことなんだけど」
「な、なんだよいきなり。あんたほんとの変だな」
「僕の名前はジョージ。ジョージ・クルーニーのジョージ」
「おいおい、そんな例えださなくたってわかるよ。ジョージだろ。ものすごく普通の名前じゃないか。その名前のやつだけで、州がひとつできるくらいいるぜ。ブッシュとクリントンがいる州がさ」
「ねえ、だからこれからは、僕のことジョージって呼んでよ!」
「ははは。わかったよ、ジョージ。よろしくな」

兎がひどくおかしそうに笑いながらそう言った。
50セントもそれに負けないくらいの満面の笑みで答えた。

「よろしく!」

つづく

投稿者 hospital : 15:40 | コメント (0)

50セントの残酷な午後4

5セントコイン、5ドル札、50ドル札はあるのに、
なぜ50セント玉は存在しないのか。
子供の頃から50セントは、いつも不思議に思っていた。
スーパーで母の買い物を待つ間、
クオーター(25セント)を2枚握り締め、
一回50セントのGATYAGATYAに向かうとき。
寒い冬の日に、
小銭をじゃらじゃらとデリのレジテーブルに並べながら
砂糖とミルクがうんと入った一杯50セントのコーヒーを買い求めるとき。
腹ペコのピザ屋で、
ポケットに入ったなけなしの小銭を数えながら、
ペニー(1セント)一枚一枚まで数えながら、
ひとつ50セントのガーリックブレッドを買い求めるとき。

ある日の夕食時、
50セントは姉に尋ねた。
「なぜ50セントコインは存在しないの?」
「あら、50セントコインもあるのよ。なかなかお目にかかれないだけで」
「うそだ。僕一度もみたことないよ。絶対うそだ」

姉にはしょっちゅう騙されていた。
曰く、タクシー運転手に中東人が多いのは、石油の消費に貢献するためで、アッパーイーストで一人暮らしをする若いブロンドは高級娼婦と相場が決まっていて、イーストビレッジに並ぶインド料理レストランは全て裏で厨房が繋がっているため、どの店に入っても味が一緒…。

そんな他愛のない冗談ばかりであったが、
50セントはいつだって真に受け、
姉に笑われるのが常であった。

「もう。また僕を騙そうとしてるんでしょ」
「うそじゃないわよ」
「うそだよ。50セントコインなんてみたことないもの」
「本当だって言ってるでしょ。わたしはみたことあるんだから」
そう言って姉が50セントの頬つねる。
「これこれ、やめなさい」
出来立てのチリビーンズのスープを鍋ごとテーブルの上に置きながら、母が二人をたしなめる。

姉と母が死んだ15歳のときを境に、
50セントは一人で生きてきた。
長い闘病生活の末に残った母の貯金はあまりにわずかで、
50セントはハイスクールには進まず、
肉体労働で日々の生活費を稼いだ。
工事現場の資材運び、港の沖仲士、引越しの荷物運び。
元々筋肉質だった体は日に日にたくましくなり、
気がつけばボディビルダーさながらの肉体美を手に入れていた。
近所の不良たちからドラッグの売人をやらないかと誘われもしたが、姉の死のことを考えるとそんな気にはなれなかった。

稼ぎは多いとはいえなかったが、
扶養する家族もないので、
生活はそれほど苦ではなかった。
昼は肉体労働をして、
夜はのんびり本を読んだりビデオをみる。
そんな生活。

時折、自分の将来に不安を抱くこともあった。
こんなことを死ぬまで続けるのだろうか。
労働から帰宅し、汗をたっぷり吸い込んだシャツを脱ぎ捨て、
埃まみれのワーキングブーツを部屋の隅に蹴りやるとき、
そんなふうに思ったりもした。

そんなある日、50セントは啓示を受けた。

職場での休憩時間。
トラックのタイヤを背にチャイニーズの
フライドチキン&フレンチフライを食べていたときのこと。
トラックの荷台から崩れ落ちた材木が、
50セントの頭を直撃した。

激痛とともに目の前が暗くなり、
意識を失い地面に倒れこむ。
そして、目が覚めるまでに、
奇妙な短い夢をみた。

夢の中で、粗末な木綿服を着た三人の黒人が、
50セントに語りかけた。

ひとりが言った。
「ヒップホップをはじめなさい」
もうひとりが言った。
「君には才能がある。類まれなる才能が」
そして、最後のひとりが言った。
「ヒップホップを救えるのは君しかいない」

それまでの人生で、
ヒップホップについて意識したことがなかったわけではない。
ヒップホップが若者に絶大な人気を誇ること、
ヒップホップが莫大な金を生み出すこと、
ヒップホップが限られた成功のための近道であることを
50セントは知っていた。
実際に、近所の若者たちのが多くが、
10thグレードを終えたくらいの歳になれば、
ヒップホップスターを夢見てラップの真似事をはじめ、
どこからか手に入れた金でターンテーブルやミキサーを買い、
レコードの万引きに精を出すのを50セントは知っていた。
マンチェスターやリヴァプールの労働者階級の若者たちが、
サッカーボールをクローゼットの奥に押し込み、
楽器を手にバンドを始めることで、
新しい未来への可能性に思いを馳せるように、
その街の若い黒人たちも、
アメリカンフットボールやバスケットボールへの情熱を捨て、
ヒップホップに華々しい未来を託そうとしていたのだ。

僕には関係ないよ。今の暮らしでじゅうぶんさ。

そんなふうに思っていた50セントだったが、
その日以来、夢でみた三人の黒人の言葉が、
頭から離れることはなかった。

働いているときも、食事をしているときも、
シャワーを浴びるときも、ベッドで眠りにつこうとするときも、傷ついたレコードが同じ箇所で何度も何度も繰り返し続けるように、夢の中で聞いた声がいつも頭の中でループしていた。

そしてついに、
手付かずだった母親の貯金をおろし、
ヒップホップを始めるための機材一式を買い揃えたのだった。

教則本を読みながら、トラックを作った。
サンプリング。コラージュ。打ち込み。
よせ集めの音でひとつのトラックを作り上げる。
まるで、何枚ものコインで揃えた50セントのように。

もともとリリックを書くための素養はあった。
幼少の頃から詩に親しんだおかげで、
韻の踏み方を心得ていたし、
そこに隠喩と象徴をこめることだって、
苦もやってのけることができた。
そうして、できあがったリリックを読み返したとき、
50セントは思うのだった。
たしかに、僕には才能がある。類まれなる才能が。
どこにもない。誰にもない。そんな才能を僕は持っている。
それはまるで、いまだみたことのない50セントコインのように。

こんなふうにして、
50セントは50セントになったのだった。

つづく

投稿者 hospital : 15:37 | コメント (0)

50セントの残酷な午後3

50セントがカワカミという偽名を使って収入の大半を寄付金や奨学金に捧げようと決めたのは、贅沢せず暮らせば一生困らないだけの貯金ができたときで、ラッパー・50セントとしての名はすでにもう広く世間に認知されていたし、母にもらった本名もまた、取材熱心なマスコミの知るところとなった後だっただめ、悪童としてのイメージを崩さぬよう、偽名を使う必要があると、そう考えたからだ。
そして、ちょうどそのとき手にしたヘルス関連のフリーペーパーに載っていたのが、パークアベニュー沿いにある皮膚科専門メディカルオフィスの広告であり、そこに載っていたいたのが、Dr.カワカミの名と、その横で微笑む日系アメリカ人の写真であった。

なんだか、すごく人の良さそうな顔をしてるな。
じゃあこの名前をもらおう。
下の名前は、そうだな、フィフティーでいいか。

そんな風に決めてしまった偽名を、
まさかこうして実際に名乗ることになるなんて、
と、50セントは、その奇妙な偶然に内心ひどく驚いていた。
そして、男に伝えたはずのその名を、
今度は自分自身に言い聞かせるかのように、
もう一度、口に出して言ってみるのだった。

「カワカミ。僕はカワカミ」

その名をきいて男が言った。
「カワカミ?日本人の名前だな。何世?」

「さ、3世」

でまかせの言葉が口をつく。
そして同時に、ついた嘘への罪悪感と、
更なる質問が来るのではないかという緊張感が、
胸の中でうずまく。

そもそも、50セントは日系アメリカ人のことなど、ろくに知ってはいなかった。日本のことだって、スシやゲイシャやソニーやトヨタやニンテンドーやYMOや少年ナイフやピチカートファイブやボアダムスのことくらいしか知ってはいなかった。

「三世か。そうだよな。あんた、完璧にアメリカ人って感じだもん。俺の知ってる日本人たちとは全然違う感じがするよ。あ、お茶入れよう」

湯を沸かすために席を立った男をみて、
この話題がこれ以上続かぬような気がした50セントは、
静かに安堵のため息をついた。

そして、元々はクイーンズ生まれの黒人であるから、
あたりまえといえばあたりまえなのではあるが、
日系アメリカ人を装う50セントを指して、
「完璧にアメリカ人」「日本人と違う」といった男の言葉を
頭の中で反芻してみるのだった。
アメリカ生まれのアメリカ育ちの日系人と日本人がどう違うかなんてことなど、これまで一度も意識したことがなかった50セントは、いまひとつピンとこない気分でいたのだ。

「そういや、カワカミって名前、どっかできいたことがあるな」

席に戻るや発せられた男の言葉に、
50セントはどきりとする。
男は必死に何かを思い出そうと、
神妙な顔で腕を組み小さな声で呟いている。

「カワカミ、カワカミ…」

50セントが声をかける。

「そ、それって、もしかして皮膚科医の名前じゃない?」

「いやちがう。なんだったかな…。まあいいや」

男の顔が崩れ、さっきまでの柔和な顔に戻る。

「それで、カワカミはラストネームだろ。じゃあ、ファーストネームは?」

「え、えっと…」

フィフティー。
そう答えても良かったのかもしれない。
しかし、フィフティー・カワカミは寄付金や奨学金のための偽名であったし、せっかく容姿を変えて、別の自分に成り代わったっていうのに、元の50セントのような名前ではどうにももったいないような気がした50セントは、別の偽名を名乗ろうと瞬時に思った。

それでも咄嗟には適当な名前がみつからず、
答えに窮していると、男が言った。

「いいよ別に言いたくなければ言わなくても。でも普通、自己紹介はファーストネームでするもんだぜ。年だって同じくらいなんだし」

「あ、いや…」

名前について考えならがらも、
「年が同じくらい」という男の発言に
50セントは少し驚いていた。
男は自分よりずっと若く見えたし、実際に、今は20歳でもうすぐ21歳になるのだと食事中に聞いた気がした。
もっとも、元の、黒人である自分の顔とくらべたらばの話ではあるが。

妙な沈黙が二人の間に横たわる。
男は50セントが口を開くのを待っている。

50セントは混乱していた。
何かしらの名前を口に出そうと、
考えれば考えるほど、
それを決めることができない。
もうすこし時間が欲しい、
と、50セントは思った。
新しい自分のための新しい名前だ。
慎重になる必要がある。
熟考する必要がある。
なぜならその名は、東洋人になった今の自分にとって、
「ホントウ」の名前になるやもしれないから。

簡単に決められるべきじゃないんだ。
名前ってのはとてもとても重要なことなんだ。

50セントはそう考えた。
そして、その考えはかつて、
ラップを始めた頃の自分に、
「50セント」と名づけたときにも、
抱いた覚えのあるものだった。

きょとんとした顔で50セントを眺める男の目に、
ひどくきまりが悪くなった50セントは、
ようやく口を開いた。

「き、君の名は?」

自分の名前については、
とりあえず後回しにしようと、
そう考えたのだ。

男はすぐにその名を答えた。

「ラビット」

「え?」

「俺の名前はラビット。みんなそう呼んでる」

「ラビット?ラビットって動物の?」

「そう。それ。でも本名はもちろん違うぜ。韓国人の名前。たぶんアメリカ育ちのあんたにはうまく発音できないはず。別のイングリッシュネームもあったけど、今はみんな俺のことラビットって呼んでる」

「ラビットって、自分でそうつけたの?」

「そうだよ」

「なんでラビットにしたの?」

「好きな小説から」

それを聞いた50セントは、
男の名前から真っ先に連想された小説の名を口にした。

「走れ、ウサギ(Rubbit, Run)?ジョン・アップダイクの」

「あたり!」

「ぼ、僕もあの小説、大好きだよ!」

朝にはコーヒーショップの女の子に、
ピクシーズの曲を好きだと伝えられなかった50セントが、
今は躊躇なくそう言った。

「そっか。じゃあ俺たち気が合うな」

50セントは嬉しくなった。
姉が死んで以来、こんなふうに誰かと小説の話などしたことがなかったから。
いつだって彼のまわりにいたのは、テレビの番組表とタブロイド誌のゴシップ記事にしか興味がない、そんな連中ばかりだった。
同士をみつけた。そんな気がしていた。

「四部作とも、全部読んだ?」

「もちろんさ。どれも俺、好きだよ。」

「で、でもさ、あのラビットってやつ、あんまりぱっとしない奴だよね。そ、それでもいいの?」

「ん?かまわないよ。ラビットって名前、なんだかかわいいもの。ははは。ほんとの理由はそれだけかも。ははは」

兎という名のその男は、
そんなふうにして笑うのだった。

細めた目と口元にこぼれた白い歯が、
すこし兎にみえなくもなかった。

つづく

投稿者 hospital : 15:34 | コメント (0)

50セントの残酷な午後2

キッチンテーブルを囲んで
トマトソースのパスタを食べる間、
50セントは男に関するいくつかのことを知った。

生まれたのは韓国であること。
小さい頃、家族とともに韓国からカリフォルニアに移住してきたこと。
ハイスクールを卒業した後、先に来ていた兄を頼ってニューヨークに来たこと。
兄の家に転がりこんだこと。
兄と同じ大学に入り、今はソフォモア(二回生)であること。
カリフォルニアで小さなクリーニング店を経営していてる両親は、長男である兄に店を継がせたがっていること。
その兄が約2ヶ月前に、荷物を全て残して蒸発してしまったこと。

「お兄さんの行き場所、全然思い当たるふしはないの?」

「さっぱりだよ。まあ、俺と違って山っ気の強い男だからね、なんかヤバいことに手を出してドジ踏んじまったんじゃないかな。きっと海にでも沈められてんだよ」

「そんな!それってまずいじゃないか」

「俺もいろいろ手立てはつくしたんだけどね。さっぱり手がかりがつかめない」

「警察は?」

「一応捜索願は出してあるさ。でも行方不明なんてよくあることだからね。こと俺たちマイノリティーの世界じゃさ。警察もいまいち真剣じゃないよ」

「両親は?」

「まだ言ってない。言えないよ。おっかなくて。泣かれるにきまってんだから」

「そ、そうだよね」

50セントは自分の家族のことを思い出していた。

父親は50セントが生まれた時からいなかった。
父親なくして子供が生まれるはずがなかったが、
初めから父親なんかおらず、
キリストと同じようにして彼が生まれたと母親は主張し、
50セントも長くそれを信じていた。

シングルマザーの母親は教育に関心が高く、
ぱっとしない50セントの学校での成績を、
いつも気に病み、勉強をしろとやかましかった。
それでも、母親のいいつけに従い、
トップクラスの成績でハイスクールを卒業し、
奨学金つきで大学に進学した六つ上の姉にくらべれば、
ずいぶん甘やかされていたと、今にしてよく思うことがあった。
母親に付き添われ、深夜に泣きながら机に向かう、
姉の姿をみたことがあった。

口うるさくはあったが、
女手ひとつで二人の子供を育てる母親を、
50セントは尊敬していた。
母親は、原因不明の病で倒れるまで、
スーパーのレジ打ちと白人家庭の子守の仕事と
造花作りの内職仕事を掛け持ちしていた。

六つ上の姉から、50セントは多くのことを学んだ。
映画、音楽、文学、あるいは、全てを包括する人生のこと。
50セントの今ある雑多な知識の根幹は、
姉によって与えられたものだった。

姉は50セントとは似ても似つかぬ美人だった。
二人が並んで近所を歩くたびに、
ガラの悪い連中にまるで姉弟にみえないとからかわれた。
そんなとき決まって姉は、
黙れ!と一喝し、中指をたててみせるのだった。

姉の父親は、50セントが生まれる3年前に自殺していた。
そして、50セントが15歳の時、その姉もまた自殺した。

アメリカンロックやヒップホップよりもブリティッシュロックやジャーマンテクノを好み、スタンダップコメディよりもモンティパイソンやマルクスブラザーズのナンセンスギャグを好み、ハリウッド映画よりもクラシック映画やイタリアやフランスの芸術映画を好み、カートゥーンネットワークよりもロシアの実験アニメやチェコのクレイアニメを好んだ姉は、自らでサンデグジュペリ号と名づけた中古の小さなフランス車に乗って、ニューヨークを飛び出し、市立大学からロードアイランドのアートスクールへと編入したその年の終わり、ドームの自室に、

「星の王子様に会いに行く」

という書置きを残して、愛車サンデグジュペリ号のアクセルを踏みこんだまま、憧れの異国へと続く広い大西洋のほんの端の部分に向かって、ダイブした。
そんなふうにして、死んでしまった。

引き上げられた死体のポケットには、
大量のエクスタシーと半ダースのLSDがはいっていた。

病で入院中の母親に代わり、
その身元確認に訪れた15歳の50セントは、
びしょ濡れで海のにおいを多分に放つ姉の車と、
息ひとつせず、白いシーツに包まれ、
担架の上に横たわる姉を交互にみて、

「姉さん、サンデグジュペリ号じゃなくて、リンドバーグ号と名づけるべきだったよ。そうすりゃ、パリくらいまでなら飛べたかもしれない。星の王子様になんて、会いに行く必要はなかったよ」

と、そう呟いた。
粉雪ちらつく、ひどく寒い夜のことだった。

「あたしが悪いのよ。あたしが厳しくしすぎたから、あの娘をあんなふうにしてしまったのよ」

そう言って自らを責め、泣き暮らした母親は、
姉の死から半年後に病で死んだ。

こうして、スウィートシックスティーンの誕生日を迎える前に、
50セントは天涯孤独の身の上となった。

「ねえ、まだ名前きいてないよ」

目の前で、男の声がして、
50セントは我に返る。

「そ、そうだったね」

胸が急に苦しくなって、
全身がかっと熱くなった。
50セントは、震える声で、

「カワカミ」

と、その名を口にした。

つづく

投稿者 hospital : 15:26 | コメント (0)

50セントの残酷な午後1

今や俳優として広く知られるエディ・マーフィーはかつて、
サタデーナイトライヴの看板コメディアンであった。
自らが黒人であるという立脚点から、
過激な黒人差別ネタを連発。
文字通りのブラックジョークを飛ばしまくり、
大衆の人気を大いにかっさらった。

そんな彼のコントにこんなものがある。

ファンデーションで全身の肌を白く塗り、
茶髪のかつらを被る。つくりものの大きな鼻と、
その下に同じくつくりものの髭をつける。
さらに、インテリじみたメガネをかけ、
仕立ての良いスーツを着込む。

その姿はどこからどうみても、
中産階級の白人紳士にしかみえない。

そんなエディが街へ出る。
白人を装い、白人になりきり、白人の視点からみる
黒人の知らない白人だけの世界を知るために。

エディはまずニューススタンドで新聞を買う。
新聞を受け取り、当然のように代金を渡そうとすると、
白人店主はそれを断る。
エディは驚く。
店主は不思議そうな顔をする。
押し問答の末に、

「いいから、黒人にみつからないうちに、持ってけよ」

白人店主はそう言って、金を受け取らぬまま、
エディを店から追い出す。

路上を歩くエディ。
通り過ぎる白人たちが、
過剰なほど友好的にエディに向かって
愛想をふりまく。
エディも同じように真似をする。

バスに乗るエディ。
乗客に何人かの黒人がいる。
乗客たちは全員おし黙って座っているだけ。
運転手も黙々と運転を続けるだけ。
いつもと変わらないバス内の風景がそこにある。

バスが止まる。
バスの中にいた黒人たちが全員がそこで下車する。
扉が閉まる。

突如車内ににぎやかな音楽が流れ出す。
白人運転手が陽気にマイクで喋りだす。
乗客の白人たちが歓声をあげてはしゃぎだす。
どこからともなく乗務員が現れ、車内に飾り物をつけ始める。
客たち全員に食べ物や飲み物がふるまわれる。
バスの中で白人だけのパーティーが始まる。
エディは目をまんまるにして驚く。
そして神妙な顔に戻り、

「予想を上回る事態である」

そう報告して、そのコントは終わる。

まだティーンの頃、
家族と一緒に暮らしていた頃、
六つ上の姉から借りたビデオで、
50セントははじめてそのコントをみた。
自虐と背徳を感じながら、
50セントは大きな声をあげて笑った。
その声があまりに大きいので、
かけつけた母親に、
ボンドかマリワナをキメていると勘違いされ、
持っていた箒でひどくぶたれた。
そして、50セントがテレビを指差し、
コントの内容を説明すると、
母親はさらに彼をぶった。

「それのどこが面白いのよ!」

母親はそう言った。
母親は真面目な人だった。

あの日から遠くはなれた場所で、
50セントは温かいホットチョコレートを飲んでいた。
腰にバスタオルを巻いただけの姿で、
木製の丸椅子に座っていた。
シャワーを浴びたばかりの体がぽかぽかと火照っていた。
ヒーターの温もりがひどく心地よかった。

心がすっかり落ち着いてた。

それでも、変わり果てた自分の肌には違和感があった。
視界の中に見慣れぬ色がちらついた。
手前の肌の色が変わるだけで、
ずいぶん景色が変わるものだな、と思った。

あれから1時間ほどしかたっていたなかった。
つまり、東洋人になった自分に気がついてから、
1時間ほどしかたっていなかった。

ドアが開く音がして、
男がひとり、その部屋に入ってきた。

「着替え、これでいいかな」

男が言った。
男は、雨の中で茫然自失する50セントに、
Are you all right?と声をかけた、
東洋人の、その男だった。

「どうも親切にありがとう」

気にすんな、といったかんじに、
男は手の平を大きく縦にふった。

「サイズがあうといいんだけど」

そう言って、
男は50セントに服を渡した

バスルームで受け取った服に着替える。

茶色のコーデュロイパンツと
白い無地の長袖シャツと、その上に、
黒いタイトなタートルネックセーター。
毛糸の分厚い靴下も一緒だった。
すっかり筋肉の抜け落ちた体は、
それら全てにぴったりと収まった。

部屋に戻り、男に告げる。

「この服、サイズぴったりだよ」

「そう。よかった。兄貴のなんだ」

「お兄さんと暮らしてるの?」

「いや。今はいない。行方不明中」

「そう」

「腹減ってる?なんか食うかい?」

「え。う、うん」

50セントは不思議に思った。
見ず知らずの自分にこんなに優しくしてくれる彼のことが。
どしゃぶりの雨の中で、我を失い動き出せずにいた自分に声をかけ、
自宅まで連れ込み、シャワーと着替えと
今は食事まで提供してくれようとしてる彼のことが。

エディ・マーフィーのコントを思い出す。

同じイエローだから?
同じイエローだから彼は僕に優しいの?
僕は今、イエローだけの世界で、
イエローだけの常識の中にいるの?

「ねえ」

ふいに男が話しかけてくる。

「それで、気分はもう落ち着いた?」

「うん。おかげさまで」

にっこり微笑んで男にそう告げると、
男はほっとしたような表情を浮かべる。
男がさらに口を開く。

「それでさ、さっきはずいぶんひどく取り乱してたけど、いったい何があったの?」

「え…」

まさか、
黒人から東洋人に変貌した自分にショックを受けていた、
なんて突拍子もないことも言えず、
50セントは答えに窮した。

すると、

「わかってるよ」

男がそう言った。

「え?」

「失恋だろ」

「あ…」

「俺もこないだふられたばっかでさ。わかるよ、その気持ち。俺もあんたと同じ風におかしくなってたもんな。三日くらい何も食べれなかったよ」

「…」

「まあ、あんた、食欲があるだけましだよ」

50セントは自分が恥ずかしくなった。

イエローだけの世界?そんなのあるわけないじゃないか。
畜生。僕はなんて愚かなことを考えてたんだろう。
あんなの単なるコントに過ぎないっていうのに。

「パスタしかできないけどいいかい?」

男が尋ねる。

「うん、もちろん」

そう答えてから、

「ありがとう。ほんとにほんとにありがとう」

心から感謝をこめて50セントはそう言った。

「よせよ。ただ同じ失恋仲間として同情してるだけだよ」

男が照れくさそうに頭をかいた。

「ううん。ちがうんだ。本当にすごくすごく感謝してるんだ」

50セントの目に涙が滲んだ。

嬉しかった。

彼の純粋な優しさが。

そして、50セントは
もうひとつ嬉しい事実にも気がついていた。

それは、
ラッパーとしての体裁を守るためにこれまで使い続けた、
悪口もスラングもFワードも下品な言葉もなく、
ありのままに誰かと会話をしている
今の自分の姿だった。

つづく

投稿者 hospital : 15:23 | コメント (0)

50セントの憂鬱な朝7

バスを降り、
レコード会社のビルへと向かう50セント。
自分の体にどうにも妙な違和感を抱いていた。
体がいつもより軽い。そんな気がしていた。

ビルに到着する。
サングラスはそのままに、
ニット帽とマフラーをとる。
いつもの見知った気の弱そうな若い警備員に、
軽く手をあげ、エントランスホールへと続く扉を開ける。

そのときだった。

「ちょっとちょっと、あんたどこ行くの」

若い警備員が50セントに声をかける。
いつもは怯えたように頭を下げるだけの彼が、
どうにも横柄な態度で50セントを睨む。

「…どこって。ここの会社に決まってんだろ」

「何の用で?」

「おいおい、仕事に決まってんだろ。大事なミーティングがあるのさ。だいたい、この俺様が自分から背広組に会いに来るなんてのは、ミーティングか、さもなくば銀行強盗のときだけだぜ」

「はあ。それで、おたく、どこの業者さん?」

「あん?あんた何言ってんだ?コンタクトレンズを付け忘れたのか?それともヤクでラリってんのか?」

冷たい表情を浮かべるだけで、
警備員は何も答えない。

「おい、この顔ちゃんとみろよ。フィフティだよ。ここんちのレコード会社いちの稼ぎ頭、50セント様だよ」

警備員に顔を思いっきり近付け、
さらにまくしたてる。

「さあ、よくみろ、このメクラ野郎。そして思い出せよ。おまえを含むここの連中が誰のおかげでおマンマを食えてるかってことをだよ」

警備員は黙ったままだ。

50セントはサングラスを外し、
彼の目を思いっきり睨みつける。

「おい、これでも思い出せないっていうのか。だったら、ハドソン川に沈められる前に、さっさとアイダホのイモ畑に帰りやがれ!」

騒ぎをききつけた年配の警備員が寄ってきて、
若い警備員に声をかける。

「おい、どうした」

若い警備員がそれに答える。

「いや、なにね、奴さん自分を50セントだっていうんですよ」

「ほう。そりゃ季節の変わり目でもないっていうのに、珍しいな」

50セントの頭が混乱し始める。
この人たちはいったい何を言ってるのだろう。
おかしいぞ。なんだかすごくおかしい。

「ID」

年配の警備員が平坦な声でそう言う。
いつもくだらぬおべっかばかり使う彼が、
なんだかひどく無礼に50セントを扱う。

「は?」

「IDをみせてもらえますかね、50セントさんとやら」

「…」

財布からIDを取り出し黙って二人にみせる。
二人の警備員の顔がにやつく。

「はあはあ、なるほど。こりゃ50セントさんのだわ」

「そうだっていってるだろ!」

「なるほどねえ」

「わかったら早く返せよ」

50セントが手を伸ばしIDを奪いとろうとすると、
年配警備員はすばやく手をひっこめる。

そして、落ち着いた調子でこう言う。

「いやあ、このフェイクIDはずいぶんうまくできてるねえ。自分で作ったのかい」

「え…」

「だけどやっぱり無理があるよ。君の顔、このIDの写真とはずいぶん違うみたいだよ。こっちは50セント。でも君の顔はまるで違うね」

「え…」

「まったくねえ。騙すつもりがあるなら、ジョージ・クルーニーのなんとかイレブンみたいにうまくやってくれないと、こっちだって騙されるようがないだろ。もっともあれは映画の中の話だけどね。はっはっは」

「…」

あまりに頭が混乱しているせいで、
言葉がうまく出てこない。

どうなってるんだろう。
僕の顔が、IDの写真と違う?

そこへマネージャーが通りかかる。

助かった。
と、50セントは思う。

「おい、マネージャー。おい、こっちだ」

50セントは大声でそう叫ぶ。
その声に気がついてマネージャーが寄ってくる。

「どうしたんだい、坊や」

開口一番、マネージャーがそう言う。

「どうやら、50セントさんの大ファンみたいなんすよ」

警備員がマネージャーにそう伝える。

「そうかそうか。だったら私がフィフティにあわせてあげるよ。電話番号を教えてくれるかな」

薄笑いを浮かべたマネージャーがそう言う。

子持ちの既婚者でありながら、
少年愛好家で悪名高いマネージャーが、
50セントに色目を使ってくる。

50セントの頭の中が真っ白になる。

「坊や、緊張してるのかい」

「…」

「坊や、何も心配することなんてないんだよ」

「…」

黙りこくる50セントの肩に、
マネージャーが腕をまわしてくる。
ヤニ臭い息を吐きながら、耳元でマネージャーが囁く。

「坊や、君はとってもかわいい顔をしてるね」

その言葉で50セントは我に返る。
腕を払いのけ、猛ダッシュでその場から逃げ出す。
背後から三人の大きな笑い声が聞こえてくる。

かわいい顔だって?
僕のことをかわいい顔をしてるだって?
といことは…。

走りながら考える。

あれだ。今朝のあれのせいだ。
あの化粧品が本当に効いたんだ。
僕はファニーフェイスを手に入れたんだ。
そして彼らは僕が、50セントだとわからないんだ。

体は。体はどうだろうか。

走りながら自分の体を手で触る。
服の上からぺたぺたとあちこちを触るが、
どうにも服のだぶつきが邪魔でしょうがない。

ちがう。いつもとちがう。

もともと大きなサイズの服だったけど、
今朝着たときよりもずっと大きなものに感じる。
服の中に手をすべらせ、筋肉を直に触る。
ない。あんなにあった筋肉が全然ない。
おうとつのないペッタンコの体しかそこにない。

急に体の力がぬける。
腹の底から笑いがこみあげてくる。

はははは。やったぞ。
はははははは。僕は変わったんだ。
はははははははははははは。

走るのをやめ、笑い転げながら、
路上駐車された一台の車に近づく。
期待と緊張に振るえながら、
その車の、サイドミラーを覗き込む。

あ…。

50セントは絶句する。

たしかにそこには、
それまでの悪党面とはまるで違う、
優しげで、デコボコの少ないつるりとした
愛嬌たっぷりの中性的な男の顔があった。
狂おしいほど憧れた、
インディーポップ向きのそんな顔があった。

だがしかし、予期せぬおまけまでついていたのだ。

こ、これは一体どういうことなんだ!

ミラーに映る50セントの顔。
それはあまりに変わり果てたものだった。
なぜなら、元の顔から完全に強面要素が抜け落ちたように、
その生まれもっての黒い肌の色までもが、
すっかりと抜け落ちていたからだ。

こ、こんなの、
かかかか、完璧に僕じゃないか。

今やその肌は、黒人のそれではなかった。
かといって白人のそれでもなかった。
その肌はまるで、東洋人のごとく、
いや、誰がみても東洋人といえる様相で持って、
顔や体を、あらゆる全ての部分を、
なんの違和感もなく覆っていた。

激しく降り続ける雨。
呆然と立ち尽くす50セントを、
無情に濡らす冷たい雨。

そんな雨の中で50セントは、
通りかかった若い東洋系の男に、
Are you all right?と声をかけられるまで、
その場から動き出すことが出来ないでいた。

つづく

投稿者 hospital : 15:22 | コメント (0)

50セントの憂鬱な朝6

地下鉄から出てバスに乗る。
カバンからiPodを取り出し、
そのヘッドフォンを耳ににあてる。

ヒップホップを聴く。
気分を切り替えるためだ。
悪漢ラッパー・50セントモードにはいるためだ。

流れゆく窓の外の風景をみながら、50セントは考える。
今日はどんなふうにレコード会社の連中とやりあおおうか。
どんな悪態をついて、どんな罵声を浴びせてやろうか。
あいつらの迷惑そうな顔が目に浮かぶ。
うわっつらだけの迷惑そうな顔が。

50セントは知っていた。
自分が悪ぶれば悪ぶるほど、彼らが喜ぶことを。
表面では迷惑そうにしながらも、
その心のうちは、幸福で満たされている。
異質なものをあざ笑い、己の正しさに拍手を送る。
そんな嫌ったらしい幸福でだ。

窓の外は雨に変わる。
予報より早く振り出した雨に、
乗客たちがため息をつく。

正しいものなんてありはしないのに、
人は何かを信じずにはいられない。

iPodのボリュームをぐっとあげる。
重苦しいビートが耳に響く。
汚い言葉で埋め尽くされたラップが、
頭の中で派手にざわつく。

50セントはため息をつく。

今やこの音楽は黒人だけのものではなくなった。
世界中の若者が、白い者も黄色い者もが、
好んで聴き、ときにはラップの真似事をする。

全部真似事だよ。
みんなその本質をわかっちゃいないよ。

50セントはそう考える。
そして、黒人である自分自身、彼らと同じように
真似事をしてるにすぎないとも。

だってそうだろ。
いまや人種を越えて、
大抵のどんな人たちより恵まれた環境にいる自分が、
ヒップホップの本質をわかろうはずがない。
僕はただのポップスターなんだ。作り上げられたアイコンだ。
ヒップホップを標榜する権利は僕にはないよ。
たとえばそれは、備え付けヒーターのぬくもりの中で、
移民たちが運んできた外国料理を腹いっぱいに食べ、
第三国から安く買い叩いた豆を搾り、
そう、彼らへの経済的搾取と同じように搾り尽くし、
そうしてできたエスプレッソを飲みながら
世界平和について論じ合うのと同じことだよ。

今のヒップホップには何も感じられない。
ならばそれよりも、あらゆる束縛から逃れ、
有り触れた日常から生まれるインディーミュージックにこそ、
リアルを感じるのが当然じゃないか。

勢いを増した雨が、
車窓に強く打ち付けられるのを見る。
停車したバスにずぶ濡れの客たちが乗り込んでくる。
その中に、陽気に騒ぐ黒人ティーンの一団をみつける。

50セントは、ある女性の死について、
思いを巡らす。

50年前。
こんな雨の日のアラバマで、
一人の黒人女性がバスに乗っていた。
黒人差別が色濃く横行するその時代の、
白人優先席と銘打たれた席に、その女性は座っていた。
ひとりの白人客が、彼女に席を譲るよう催促した。
彼女はそれに、ノーと答えた。
彼女はそれを正しいことだと思ったから。

しかし、白人たちにとって彼女の答えは予期せぬものだった。
法的にも、常識的にも、正しいのは彼らで、
女性は間違いを犯したとされた。
そして彼女は逮捕され、牢屋に閉じ込められた。

この事件における全ての正しさは、
白人たちが決めたことだった。

これに対し、黒人たちは怒った。
そして気がついた。
それまで盲目的に正しいと信じられていた事に対し、
自分たちの思う正しさを主張するべきだと気がついた。
こうして黒人たちによる公民権運動が始まり、
またたく間に全米中に広まった。

女性の名をローザ・パークスといい、
後に公民権運動の母と呼ばれることになる。

そんな彼女がついこないだ死んだ。
92歳だった。

50セントは彼女の勇気を心から尊敬した。
間違った正しさの中で、
自分の信じる正しさを貫いた彼女の勇気を。

そんなこと僕に出来るだろうか。
自分のことでさえ、変える勇気がないこの僕に。

何かを変えるにはアクションが必要だ。
そしてアクションは、
公平という名の自由のもとで行われなければならず、
そのきっかけを作るキックもまた、必要とされるはずだ。

黒人解放運動において、
ローザ・パークスは偉大なるキックだった。

僕にも何かしら、キックが必要なんじゃないだろうか。

でもどんな?それを得るにはどうすればいい?

いけない。
もうすぐレコード会社に着いてしまう。

懸念を振り払い、耳に意識を集中する。
バスの窓からレコード会社の建物がみえる。
悪漢ラッパーとしての自分をまつ、
金の亡者で埋め尽くされたその建物が。

50セントは自分に言い聞かせる。

俺は最強極悪ラッパー、50セント。
俺は最高極悪ラッパー、50セント。

気分がひどく高揚してくる。
頭にスイッチがはいる。
仕草が次第に乱暴になっていく。

降りるべきバス停が見えたとき、
手を伸ばし、乗車ボタンを力強く押す。
腰を上げ、ドアの方へと歩みだす。

調子付いてきた悪漢モードのテンションのせいで、
通路でおどける黒人ティーンの一団に、

どけよ!

と、怒鳴り声を上げてしまう。

いいぞ。ノってきたぞ。
50セントは思う。

この調子だ。
この調子で今日もなんとかやり過ごせそうだ。
キックなんて必要ないさ。
こうして毎日過ごしていれば、
そのうち何かが変わるかもしれないじゃないか。

さっきまでの苦悩に対し、開き直る50セント。

やがて身の上に、
大いなるキックが訪れることも知らずに。

つづく

投稿者 hospital : 15:16 | コメント (0)

50セントの憂鬱な朝5

地下鉄構内の50セント。
地下だけど、サングラスは外せない。

他の乗客にみつかると、
大騒ぎになってしまうから。
たくさんの人に迷惑がかかってしまうから。

50セントは、そんな気配り野郎なんだ。

なるべく目立たぬよう、
ホームの一番端に立つ。
地下鉄はなかなか来ない。

サングラスをずらし、
9ブロック先向こうにある、
隣の駅へと伸びる線路と、
それを覆う、漆黒の、トンネルの闇の方を覗き込む。
視力2.0を上回るその目で闇を睨む。

おや、今日もまた誰かいるぞ。

50セントはつぶやく。
闇の中に何人かの人の姿がある。
その体つきから全員がアジア人であるように思える。

いつもいつも、いったいあんなところで何をしてるんだろう。
まったく、この街はわからないことばかりだよ。

ようやく来た地下鉄の最後尾に乗り込む。
車内は暖房が効いていて、
顔を隠すためのニット帽とマフラーが、
暑苦しくてたまらない。
それから、さらに彼の気分を滅入らせるものがひとつ。

懐のポケットにしのばせた護身用の拳銃だ。

3年前、ランDMCのDJ、
ジャム・マスター・ジェイが何者かに射殺された。
ヒップホップの世界じゃよくあることだ。
50セント自身も過去に9発の弾丸を受けたことがある。

自分の身は自分で守れ。
それがこの世界の掟だ。
好むと好まざるとに関わらず、
殺されたくなければ殺すしかない。
相手が武装しているならば、こっちだって武装するしかない。

それが故、平和な朝の地下鉄内にも、
そいつを持ち運ぶ必要があった。
好むか好まざるかきかれたならば、
50セントにとっては、大いに好まざるところであるのに。

憎むべきは何であるのか。
この世界か。それを受け入れる自分か。

少しばかり、ジャム・マスター・ジェイのことを思い出した。
今時のヒップホップにはうんざりしてる50セントだけど、
ランDMCには特別な思いを抱いていた。
いい人だった。いい音楽を作っていた。
あれが本当のヒップホップだった。

マスタージェイの死、
および、ランDMCの解散は本当に惜しまれることだった。
それから、個人的に、マスタージェイには
ぺイヴメントのブートレグを数枚貸したままだったことも、
惜しむべきことだった。

ぼんやり今日の仕事のことを考える。
大事なミーティングだとマネージャーは言っていた。
そこで話し合うお題が何であるか、
50セントはすでにもう知っていた。
新しいプロモビデオのことだ。

何が大事なもんか。
ミーティングだなんて言って、
結局僕の意見なんて聞いてくれないくせに。

ヒップホップのお決まりのプロモ作りにはほとほと嫌気がさしていた。
必要なのは、この三つ。金、女、車。ザッツイット。
音楽にあわせて、それら三つの映像素材を組み合わせる。
それをバックに、出世欲剥き出しの若い黒人ダンサーたちに囲まれ、身振り手振りを交えてラップをやるだけ。
それでいっちょできあがり。
クリエイティビティなんていらない。
必要なのは、どれだけ成功を誇示できるかって、それだけだ。
そんな、下品な成金趣味だけなんだ。

ああ、ラップは我慢するからさ、
せめて、ビースティーボーイズみたいに荒唐無稽なことがやりたいよ。
スパイクに頼んでさ。リーじゃなくて、ジョーンズの方にさ。

いつのまにか地下鉄は目的地に到着する。
プラスチック製の硬い椅子から、
重い腰を、ゆっくりとあげる。

つづく

投稿者 hospital : 15:16 | コメント (0)

50セントの憂鬱な朝4

いそいそと着替えをすませる50セント。
いつものダボダボ、ジャラジャラ、ヒップホップスタイルだ。
本当はこんな格好したくないけど、
仕事のための作業着だと思ってそこは割り切る。
クローゼットの中に吊るされた、
買ったはいいけど着る機会のない、
JUNYA WATANABEデザインの服たちを恨めしく眺める。

カバンにiPodと、
読みかけのペーパーバックと、
愛用のライカのデジタルカメラを詰め込む。
ジャケットのポケットの中には、
携帯電話と財布とハンカチとポケットティッシュと、
それから、護身用の拳銃をしのばせる。
サングラスをして、ニット帽を深く被り、
マフラーで顔を半分隠して、家を出る。

駅までの道を歩く。

世間では、豪邸に住み、何人ものメイドを抱え、
移動は運転手つきのリムジンがあたり前。
そんなふうに思われがちな50セントではあるが、
実際の生活は意外にも質素だ。

なぜなら、
日系アメリカ人ネーム・カワカミという偽名を使い、
印税のほとんどを慈善団体に寄付しているからなのであり、
今年からは貧しい家庭の若者ための奨学金制度も始めたばかり。
50セント自身、大学に行きたかったけど行けなかった。
そんな無念をはらすべく、未来ある若者たちに夢を託しているというわけだ。

50セントは、すごくすごくいいやつなんだ。

冬のマンハッタンを歩く50セント。
路上のあちこちから白い蒸気が立ち昇る。
いつもの見慣れた風景の中で、
ふいにひとつの疑問が頭に浮かぶ。

あの蒸気の正体はいったいなんだろうか。
どうしてあんな蒸気がたつのだろうか。
地下にいったい何があるっていうんだろう。

もう長くマンハッタンで暮らしているくせに、
わからない自分が腹だたしい。

仕事ばっかりしてるせいかな。

途中、いきつけのコーヒーショップに立ち寄る。
色落ちしたジーンズに、白と赤のボーダーシャツを着た白人の女店員がカウンターの中にいるのを確認する。

いつものようにカプチーノを注文する。
店内には、ピクシーズの「ヒアカムズユアマン」
という曲がかかっている。

その曲に耳をすませながら、カプチーノができるまでの間、
カウンターの中でミルクをスチームする女の子の様子をじっと眺める。

実のところ、50セントが毎朝この店に立ち寄るその目的は、
カプチーノなんかじゃなく、この女の子。

Here comes your man♪
Here comes your man♪

あの、かわいらしい曲の、
かわいらしいサビの部分が流れる。

それにあわせて、
小刻みに首を横を左右に傾げて、リズムをとりながら、
女の子も小さな声で歌っているのに気がつく。
その仕草に、50セントはひどく愛しい気持ちになる。

ねえ、僕もその曲好きなんだぜ。

そう声をかけてみたかったけど、
自分のコテコテヒップホップファッションのことを考えると、
どうにも伝える勇気がない。
冗談だと思われるに決まってる。

曲が変わる。
同じくピクシーズの「ホエアイズマイマインド?」の
イントロ部分が流れ出す。

50セントは常々こう思っている。
映画ファイトクラブのエンディングで流れたこの曲と、
映画シクロの中で流れたレディオヘッドの「クリープ」と、
映画ロストイントランスレーションの中で流れた
マイブラッディバレンタインの「サムタイズ」ほど、
音楽と情景が完璧な調和した瞬間はなかったのではないかと。
あれほど音楽が尊く神聖になった瞬間はなかったのではないかと。

いつか自分の音楽も素敵な映画のワンシーンになれたらと思う。
エミネムの、あの自己顕示欲まみれのオナニー映画なんかじゃなくって。

そして、
そんなことを、カウンターの中でいま、カプチーノ入り紙カップを持ち、自分に向かってを微笑みを浮かべる女の子に、話して聞かせることができたらどんなに素晴らしいかとも思う。
メディアにも商業主義にも縛られず、拝金主義者の手先としてあくせく働く嘘っぱちの自分を脱ぎ捨て、ありのままの自分で彼女に話しかけられたらどんなに素晴らしいだろう。

自由になりたい。

ふいに、ファイトクラブからの引用がひとつ脳裏を過ぎる。

Then, I was lost in oblivion -- dark and silent and complete.

This was freedom. Losing all hope was freedom.

自由のためには、何かしらのキックと代償が必要だ。
惰性でやり過ごす日常を裏返すためのキックと、
全てのつまらぬ欲望に手を振るという代償が。

そのために、僕はどうしたらいいんだろう。
畜生。まるでわからないや。

代金と引き換えに、
カプチーノを受け取り、店を出る。

店のドアを開ける際、女の子が、
良い一日を!
といった声を聞く。

時計をみて、
駅へ向かう、その歩みを、
小走りに変える。

つづく

投稿者 hospital : 15:13 | コメント (0)

50セントの憂鬱な朝3

洗濯物をたたみながら、
テレビのニュース番組で
天気予報をチェックする50セント。
どうやら今日は午後から雨がふるみたい。

再び携帯電話がなる。
今度はマネージャーからだ。

姿勢を正し、声の調子を整える。
極悪ラッパー・モードに頭を切り替える。
受信ボタンを押す。

「ワッサア」

「ワッサア。フィフティ、調子はどうだい」

「最高にご機嫌だよ。あんたのカミさんのプッシーみてえにさ」

「そうか。ところで、フィフティ、今日は大事なミーティングがあるってこと、ちゃんと覚えているかい」

「もちろんさ。あんたのオフクロさんの顔くらいに忘れがたいことだよ」

「ならいんだ。ちゃんと遅刻しないで来てくれよな。じゃあまたあとで」

電話が切れた後、
吐いたばかりの自分の汚い言葉を思い出し、
しばし自己嫌悪に陥る50セントなのであった。

気分転換に、
テレビのチャンネルをMTVに変える。
UKバンド・ブロックパーティーのプロモが流れている。
黒人ボーカルの顔がアップになる。

なにさ、あいつ。かわいい顔しちゃってさ。

そう毒づいてから、

イギリスはいいよな。イギリスはさ。
僕もイギリスに生まれて、UKロックと洒落込みたかったよ。

ヒップホップ大国アメリカに生まれていしまったこと、
完全無欠のギャングスタラッパ顔に生まれてしまったことに、
ひどく悲しくなる50セントなのであった。

MTVの映像がベックのプロモに変わる。

畜生。僕だってあんな顔になりたいよ。
アートスクールの女の子たちに、
きゃあきゃあいわれてみたいものだよ。

突然やけになり、
バスルームに飛び込む。
裸になる。
例のチカコビューティー社製、
ファンシーフェイスになる化粧水を頭から被る。

びしょぬれのまま立ち尽くし、
50セントは思う。

馬鹿だな、僕。
こんなのほんとに効くわけないよ。
僕ってば、ほんとにお馬鹿さんだな。

つづく

投稿者 hospital : 15:11 | コメント (0)

50セントの憂鬱な朝2

オーガニックシリアルを食した後で、
のんびりカフェオレを飲みながら、
ニューヨークタイムズにざっと目を通す50セント。
スーザンソンタグの遺稿に関する記事を熱心に読む。
ステレオのスピーカーからは、
静かな音でシー&ケイクが流れている。

携帯電話が鳴る。

着信を確認すると、
スヌープ・ドギー・ドッグと表示されている。

「ちーっす。ドギー先輩、ちーっす」

「うっす。フィフティ、元気?」

「元気っす。元気あること山のごとしっす」

「フィフティ、年末のヨラテンゴのライヴ行く?」

「いや、無理っす。年末は仕事詰まってるっすよ」

「俺もー」

「ドギー先輩もっすか、じゃあきかないでくださいよ」

「まったく。ヒップホップ稼業も楽じゃないよ」

それから二人は大好きなインディーポップ談義に花が咲く。
The Go!Team、すごくいいよね、という話で盛り上がる。
そして、いつものように仕事の愚痴を言いあった後、
いつか一緒にマタドールに移籍しようね、
という毎度交し合う非現実的な口約束とともに電話を終える。

つづく

投稿者 hospital : 15:09 | コメント (0)

50セントの憂鬱な朝1

その朝、カリスマラッパー・50セントは、
起き抜けのシャワーを浴びた後、
いつものように鏡に向かい、
太いため息とともにこう呟いた。

はあ。なんだって僕はこんなに悪党面なんだろう。

毎朝繰り返される憂鬱。
人は外見じゃ判断できないなんていうけれど、
マーベル社のコミックに出てきそうな凶悪な面構えと、
その下で黒光りするカブトムシの如き重厚な肉体、
それを包むダボダボ服を目の前にしたとき、
人は彼を、ギャングか、ラッパーか、
ラップをするギャングか、ギャングをするラッパーか、
そのうちのどれかとしか考えられないことを知っていたし、
メディアの中での自分の振る舞いを省みたとき、
それを否定するのがどんなに馬鹿げたことなのか
50セント自身、重々承知のことなのであった。
それでも、時々はこんなジレンマに苛まされのだ。

みんなホントの僕を知らない。
ほんとは細いジーンズにコンバースを履いて、
インディーポップをやりたいホントの僕のことを。
ああ、こんなルックスじゃなければなあ…。

そんなことを考えながら、
昨日、日本から取り寄せたばかりの、
チカコビューティー社製、
「ファニーフェイスになれる化粧品」を
顔面に塗りたくる。

こんなの本当に効くのだろうか。
そんなふうに訝しげながらも、
化粧品とテクノポップは日本製に限るよな、
そうひとりごちて、
バスルームを出る50セントなのであった。

つづく

投稿者 hospital : 15:06 | コメント (0)